ココ・シャネルの回想風記事です。当社商品とは直接関係はありません。

ココ・シャネル
(1883-1971)

フランスの女性ファッションデザイナー。女性の生き方のモデルとして、近年その評価はますます高まっている。英国のノーベル賞作家バーナード・ショーは、「20世紀の偉大な女性は、キューリー夫人とココ・シャネルの二人である」と評した。シャネルの独創的な作品の多くは、男性に従属しない女性の自立をテーマに生み出され、世界中で熱狂的に迎えられた。唯一無二のその個性から紡(つむ)ぎだされた言葉は、モードやファッションという枠を超越し、永遠の光を今なお放ち続けている。

めげない、くじけない、 おもねらない、
そんな気持ちで生きていってよ。

ココ・シャネルから学ぶ

私の人生は闘い、
そして、人生は続いた。

娘たちを残して死んだ母、そして、逃げ去った父親。
私たちは孤児院に行かされたが、私は、そこで裁縫を学び、生きていく術(すべ)を身につけた。
自分の生まれ、育った環境を憎んだことは決してなかった。そして必死に生きた。

場末のクラブで歌手もした。でも男達に媚(こ)びることなく、自分の考えを率直に語った。
19世紀のフランスでは、自分の意見を言う女性は めずらしく、男達、特に上流階級の男に面白がられた。
その時出会ったのが、エティエンヌ・バルサン。パリ近郊の彼の屋敷で暮らした。たくさんの男女が出入りし、男は乗馬と狩、女達は大きな羽根のやゴテゴテした飾りのついた帽子を被(かぶ)り、コルセットで腰を締め付けて男に媚を売る服装をしていた。

その自堕落な生活には吐き気がしたが、ある時安い帽子を仕入れて、
私なりにシンプルに羽根をつけた帽子を作った。
すると女性達は大いに気に入り喜んで買ってくれたのだ。

それが、自堕落な貴族の生活から抜け出すきっかけだった。25歳の時バルサンに援助してもらい、パリ・マルゼルブ大通りのバルサンのアパルトマンに最初の帽子店を開いた。

最愛の人の突然の死。

その頃バルサンの友人であるイギリス貴族のアーサー・カペルを紹介された。
カペルは実業家で帽子店の繁盛を見て、積極的に投資をしてくれた。

30歳の時、フランスの上流階級がバカンスに来るドーヴィルにモードのブティックを
開店することができた。私のテーマは、窮屈(きゅうくつ)な装いから女性達を解放すること。

第一次世界大戦が始まり、物資が不足したこともあり、男性下着の素材であったジャージーを使って女性達のドレスを作ることを思いつく。これが、大ヒットした。 カペルのすすめもあり、パリのカンボン通りにブティックをだした。たくさんの人が来て、大繁盛した。

カペルとは一緒になりたかった。しかし身分のちがいからカペルは他の女性と政略結婚をしたが、長続きせず離婚する決意を固め、パリで私と一緒になるはずだった。しかし、その途中に交通事故でカペルは死んでしまった。
私は36歳だった。

カペルが亡くなったことによってカペルは自分のものになった、私の思い出の中にカペルは生き続ける、そう自分に言い聞かせて私は生きた。

すべてを失くし、
ひとりぼっちになったとき、
いつでも相談できる友人をひとり
持つことね。

あとは仕事よ。
慰めてくれる親友が
ひとりいてくれればいい。

心を許せる友を持つこと。
そして仕事があれば幸せなんだと。
「自分が生涯かけて成し遂げたいことがあればいい」
と置き換えてもいい。

34歳

34歳の時、ロシア人のピアニストで、パリで芸術サロンを主催し、多数の芸術家のパトロン・友人であったミシア・セールと出会う。

ミシアはミューズであり、多くの画家のモデルにもなった。私は小柄でやせ型、当時珍しい大胆なショート カットにしていた。誰もまねのできないファッションセンスで装い、話術にも長けていた。当時のフランスの上流階級の男たちが会ったことがないタイプだった。

決して男におもねらない、媚(こ)びない。それも珍しかっただろう。女性が男性を立てるのが当たり前で、本当のことは黙っておくのが普通だったけれど、私は辛辣で舌鋒(ぜっぽう)鋭く痛いところを遠慮なく突く。上流階級の若い男たちは、そんな言われ方をされたことがないから逆に魅力を感じたのかもしれない。

カぺルに死なれたとき、ミシア夫妻はイタリア旅行に誘ってくれ、カペルの死の悲しみをまぎらわすことができた。私は作曲家・ストラビンスキーなどロシアの芸術家を積極的に支援した。 

ルノアールが描いた
ミシア・セールの肖像画

リトル・ブラック・ドレス

25歳の時、ぬくぬくとした貴族の生活を目の当たりにし、怒りを感じた。
男性も女性たちも働かない。やることは社交だけ。

男から 贈られた宝石をジャラジャラと首から下げ、自分に似合わなくてもゴテゴテとした衣装を男のために着ている。男に養われていることの証しのように。たとえ貴族のお嬢さまであろうが、私にとっては、卑(いや)しくてエレガントには感じられなかった。

しかしそこで私は、エレガントとは何かということを発見した。
私が考える美意識、エレガンスの最も大切な考え方は、洋服も含め、すべてが引き算の美学。どの国でも女性は昔から飾りや色を足していく。装飾過剰になり、色も満艦飾、没個性で行動的にはなれない。
余計なものはすべて削(そ)いでいく。

その考えの究極ともいえるのが43歳の時つくった黒一色で装飾の少ない「リトル・ブラック・ドレス」。アメリカ版「VOGUE」が紹介してくれて大ヒット。
黒一色のドレスは、当時は喪服のみだったが、フォーマルからパーティー、ビジネスまで女性の魅力を引きだす洋服として世界中の女性の定番になっていった。

エレガンスの最も大切な考え方は、
すべてが引き算の美学 。

エレガントとはシンプルであり、
知性であり、
自立である。
そして、謙虚であること。

CHANELのブランドマークの由来にはいくつかの説がある。その1つは、シャネルが南フランスの古城を改築したワイナリーを訪れたときのこと。その壁面に連続して刻まれた文様は、彼女のイニシャルである2つのCを背中合わせに重ねたような模様であった。それを眺めていたときにひらめいたという。

CHANEL No.5誕生

時代の風を読むというか、時代が変わっていくことを敏感に感じ取らなければならない。
それは「気づき」。第一次世界大戦がはじまって、男たちは戦争に行き、女性たちも貴族であっても工場に行って働かなければいけない。

そんなときに動きにくい服装は、危険であり意味がない。物資もない。だから伸縮性がよく動きやすい男性用下着生地のジャージーを使ってドレスを作ったのよ。他のデザイナーには考えも及ばない。しかもファッションリーダーとして私自身が着て見せたから飛ぶように売れた。
気づき、そして発想よ。そして売れたら、標準にしてしまうことが大事。 

※写真はイメージです

そして私の誇り「シャネルNo.5」。
当時の女性がつけていた香りは、花のエッセンス系と動物系のムスクなどを使った香りで、名前も詩的な物ばかり。男たちから贈られるものとして存在していた。

第一次世界大戦が終わった1920年代の自由な精神の女性の心に訴えかける、女が自分のために自分で購入するような香水が欲しいと感じていた。
1921年にパリに店を開いたときクチュールサロンで香水を販売するアイデアを思いついた。
これまでとは違う単一型の香りではなく、香りが重なり合うような新たなるフレグランスが欲しかった。

徹底したマイナスの美学

そしてロシア系フランス人化学者で調香師のエルネスト・ボーを紹介された。彼は、化合物アルデヒドで香りを持続させるための技術をもっていた。

ボーはこれまでにつくりあげた作品の内、No.1からNo.15、No.20からNo.24の番号がふられた10本の瓶を試作品として届けてくれた。その中から5番目の香りを選んだ。それは、その年の5月5日に自身5度目のコレクションをおこなうことや、5という数字は私にとって好運をもたらすような気がしたから。そしてこの香水を「CHANEL No.5」と名づけた。

「CHANEL No.5」の瓶は、ニューヨークの近代美術館(MOMA)に永久保存されている。当時の香水瓶はアールヌーボーの影響で華美で凝ったものが多かったので、デザインは従来のものを否定して、徹底してマイナスの美学を生かしたシンプルなものが良いと考えた。そしてなにより自分に合った香りも知らないようでは一人前の女性として認められない。香水も女性の解放と自立よ。

きれいなことより美しいこと。

事業は大成功したけれど、その後、第二次世界大戦があり、スイスに移り15年間ブランクができた。
ずっと女性の自立を目指してシンプルで動きやすい服を作ってきたのに、気がつけば世の中にまたもやドレッシーなスタイルがはびこり出している。

これが許せなかったので、71歳の時に復帰することにした。復帰後の初めてのコレクションはパリでは酷評されたけれど、アメリカでの評価は次第に高くなっていった。そしてジャクリーン・ケネディに代表される新世代のセレブな女性たちに支持され、世界的な評判になった。 

人にはきれいだって言われることなんて、 
ほとんどなかったけど、
そんなこと知ったことではないわ。
どうでもいい。

ココ・シャネルの服は、誰よりもココ・シャネルが似合う。
これまでにない着こなしを見せた私を男たちは、「美人じゃないけど着こなし上手」とほめてくれたわ。私がこだわっていたのは、キレイなことより美しいこと。きれいさは年とともに失われていくけれど、“美しさ”は死ぬまで永続するものなの。

1963年11月22日ダラスで
ケネディ大統領が暗殺された日、
ジャクリーンはシャネルのピンクの
スーツを着ていた。

私の人生は闘いの連続。
でも私は自分の人生を
憎んではいない。

私の人生は闘い、
そして、人生は続いた。

娘たちを残して死んだ母、そして、逃げ去った父親。私たちは孤児院に行かされたが、私は、そこで裁縫を学び、生きていく術(すべ)を身につけた。自分の生まれ、育った環境を憎んだことは決してなかった。そして必死に生きた。

場末のクラブで歌手もした。でも男達に媚びることなく、自分の考えを率直に語った。19世紀のフランスでは、自分の意見を言う女性はめずらしく、男達、特に上流階級の男に面白がられた。
その時出会ったのが、エティエンヌ・バルサン。パリ近郊の彼の屋敷で暮らした。たくさんの男女が出入りし、男は乗馬と狩、女達は大きな羽根のついた帽子を被り、コルセットで腰を締め付けて男に媚を売る服装をしていた。

その自堕落な生活には吐き気がしたが、ある時安い帽子を仕入れて、私なりにシンプルに羽根をつけた帽子を作った。女性達は気に入り喜んで買ってくれた。
それが、自堕落な貴族の生活から抜け出すきっかけだった。25歳の時バルサンに援助してもらい、パリ・マルゼルブ大通りのバルサンのアパルトマンに最初の帽子店を開いた。

すべてを失くし、 ひとりになったとき、
いつでも相談できる友人をひとり持つことね。

最愛の人の突然の死

その頃バルサンの友人のイギリス貴族のアーサー・カペルを紹介された。カペルは実業家で帽子店の繁盛を見て、積極的に投資をしてくれた。
30歳の時フランスの上流階級がバカンスに来るドーヴィルにモードのブティックを開店することができた。 私のテーマは、窮屈(きゅうくつ)な装いから女性達を解放すること。第一次世界大戦が始まり、物資が不足したこともあり、男性下着の素材ジャージーを使って女性達のドレスを作った。これが、大ヒットした。カペルのすすめもあり、パリのカンボン通りにブティックをだした。
たくさんの人が来て、大繁盛した。

カペルとは一緒になりたかった。しかし身分のちがいからカペルは他の女性と政略結婚したが、長続きせず離婚する決意を固め、パリで私と一緒になるはずだった。しかしその途中交通事故で、カペルは死んでしまった。
私は36歳だった。
カペルが亡くなったことによってカペルは自分のものになった、私の思い出の中にカペルは生き続ける、そう自分に言い聞かせて私は生きた。

すべてを失くし、
ひとりぼっちになったとき、
いつでも相談できる友人をひとり
持つことね。

あとは仕事よ。
慰めてくれる親友が
ひとりいてくれればいい。

心を許せる友を持つこと。
そして仕事があれば幸せなんだと。
「自分が生涯かけて成し遂げたいことがあればいい」
と置き換えてもいい。

きれいだなんて言われたことはない。
そんなこと知ったことではない。どうでもいい。
きれいさは失われる、美しさは死ぬまで続く。

事業は大成功したけど、その後、第二次世界大戦があり、スイスに移り15年間ブランクができた。
ずっと女性の自立を目指してシンプルで動きやすい服を作ってきたのに、気がつけば世の中にまたもやドレッシーなスタイルがはびこり出している。

これが許せなかったので71歳の時に復帰することにした。初めてのコレクションはパリでは酷評されたけど、アメリカでの評価は次第に高くなり、ジャクリーン・ケネディに代表される新世代のセレブな女性たちに支持され、世界的な評判になった。 

人にはきれいだって言われることなんて、
ほとんどなかったけど、
そんなこと 知ったことじゃないわ。
どうでもいい。

ココ・シャネルの服は、誰よりもココ・シャネルが似合う。これまでにない着こなしを見せた私を男たちは、「美人じゃないけど着こなし上手」とほめてくれた。私がこだわっていたのは、キレイなことより美しいこと。きれいさは年とともに失われていくけれど、“美しさ”は死ぬまで永続するものなの。

1963年11月22日ダラスで
ケネディ大統領が暗殺された日、
ジャクリーンはシャネルのピンクの
スーツを着ていた。

エレガンスの最も大切な考え方は、
すべてが引き算の美学ということ 。

余計なものは

25歳の時ぬくぬくとした貴族の生活を目の当たりにし、怒りを感じた。 男性も女性たちも働かない。やること は社交だけ。ジャラジャラと男から贈られた宝石を首から下げ、自分に似合わなくてもゴテゴテとした衣装を男のために着ている。男に養われていることの証しのように。たとえ族のお嬢さんであろうが、私にとっては、卑しくエガントには感じられなかった。

しかしそこで私は、エレガントとは何かということを発見した。

私が考える美意識、エレガンスの最も大切な考え方は、洋服も含め、すべてが引き算の美学。どの国でも女性は昔から飾りや色を足していく。装飾過剰になり、 色も満艦飾、没個性で行動的にはなれない。

余計なものはすべて削(そ)いでいく。 その考えの究極ともいえるのが43歳の時つくった黒一色で装飾の少ない「リトル・ブラック・ドレス」。アメリカ版「VOGUE」が紹介してくれて大ヒット。 黒一色のドレスは、当時喪服のみだったが、フォーマルからパーテ ィー、ビジネスまで女性の魅力を引きだす洋服として世界中の女性の定番になっていった。

エレガンスの最も大切な考え方は、
すべてが引き算の美学 。
エレガントとはシンプルであり、知性であり、
自立である。
そして、謙虚であること。

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